昭和五十一年一月十一日 朝の御理解
御理解 第三十六節 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの 信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが 、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受 けられる。
草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すとと、一心の真を出さしてもらう。いわゆる、本当の事をわからしてもろうて、その本当の事に一生懸命になる。いわば一生懸命いわゆる命を懸けるということです。一生、それが一生命を懸ける、そこで一生命を懸けるほどしの、一心を出すのでございますから、本当に神様に喜んで頂けるような大きなおかげの頂けれる、信心に懸けなければなりません。
私は毎日こうして朝の御祈念をさせて頂いて、今日はどういう御理解を頂くだろうかと思うと、もう心が、もうそれこそ有頂天になるほど、楽しい心が沸いてきます。ここへ座ってからですからね、わかる今日はどういう御理解を頂くかということは。しかも私は毎日<お届け>のある方達を、殆ど、あの若先生が御祈念をする間、ほとんどかかるんです、ここお届けをするのが。ですから、もう本当にそこに何分かの間に決まるんです。今日頂く御理解というのが、ね。この教典を神乍らに頂いたところを開かせて頂く。今日は三十六節だな、こりゃ先日も頂いたけれどまた重ねて頂く、いつも例えば同じ御理解を頂いたことがないですから、もう何日か前に頂いた御理解だけども今日またどういうふうに頂くだろうかと思うただけでも楽しゅうなるです。そして、頂き終わって今度は、その楽しさが有り難うなるです。
本当に、毎日の事ながら有り難い事だなぁと、神様のいうならば御心の深さ、寛さ。
神様のいうなら切実心を日々、こう聞かせて頂くのですから、その神様の寛い大きな御心。またはその、どうでも氏子信心しておかげを受けてくれよと願われる親神様の切実心をもって私共は御理解を頂き、またおかげも受けていかなければならんということです。これにはね、皆さん、今日どげな御理解頂くじゃろうかと心踊る思いがまずいる様です。合楽では本当にそうです。ですから、もちろんだから眠気なんかつきゃしません。楽しいのです。今日はどんな御理解を頂くだろうかと。そこで、なら、頂く姿勢というか、頂くその心の状態というか、それをやはり確かなものにして行かなければならんことになります。でないと、その後に本当に御理解を頂いて有り難いという事になってこないです。楽しい、そして頂く、そして本当に日々の事ながら有り難いという事になってこない。天地の親神様のそれこそ限りない寛い大きな御心をです、わからせてもらう。そこで、私共もやはり天地の親神様が氏子信心しておかげを受けてくれと、願うておいでられるその切実心をもって、そして頂けれるだけのおかげを、頂けるだけの力を頂こうと、まずはそういう覚悟というか、またはそういう姿勢を作らなければいけません。
もう、この事だけ頂きゃもう、いう事はない、という様ないわばケチな事ではない、神様が寛い深い御心をもって説いて下さる、その御教えを小さいおかげ、小さい受け物の中に押し込んでしまったんじゃ、もったいないでしょう。
まあそこでですけども、私は思いますのに、信心の深さというか、ああ、あっちは中々信心が深い、もう実に教学的であり、哲学的である。信心が深いというのはそういう様なふうに皆が頂いております。深い、けれども本当はどういうことかというと、その深さとか寛さというものは、まあ一つの美術品なら美術品に例えてもうしますとですね、極色彩の壺なら壺があると致しましょうか、はあ、見事だ綺麗だなと思います。極色彩の陶器は。ところがです、もう形も差ほどに変哲もない、例えていうとここの客殿に、灰皿が置いてございますよね、あれは備前焼です。○○陶芸展で賞を受けたいうほどしの、もう本当に何でもないような感じの、しかもそれは灰皿ですから、けれどもね、あの行ってから見るたんべんに良くなるですね。いわばその作品のいうならば深さというものを感じます。それが華やかに表面に出ておるのはね、ああ素晴らしいと見た目には素晴らしいですけども、深さに案外触れることが出来ないですね。信心も例えばです。論理的にいわば究明する、教学する。しかも、その教祖の御教えを哲学的にそれを究明して参りましてもそれがおかげにつながらない教学ではね、大した事はないと思うんですけれども、そういういうならば思索の人とでも申しましょうかね。宗教界でもお釈迦様はその思索の人だと言われております。いわゆる仏教哲学です。教祖様の場合はそれとは反対です。この方の道は、喜びで開けたじゃから、喜びでは苦労はさせんという事だけに尽きとる様な感じでしょう、ね。教典の全てがそうです。天地書附がそうです。おかげは和賀心にあるんだと、けれどもこの一言の深さ寛さには、もうそれこそ何万巻の経文を持ってきてもまだ限りがないほど深いのです。
その証拠にはこの三十年ちかく、私この教典ばっかりに取り組んでお話をしても、お話をしても、尽きる事がないのですから。そんなに深くて寛いのです。
仏教なんかもう詳らかな事です。そのいうならばその哲理とでも申しますか、それが解き明かしてある。だから、素晴らしいです、けれどもそれはちょうど極彩色のいうならば陶器を見るようなものであって。教祖様のは差ほどの変哲もない様な色であったり、形であるようだけれども、その慈味豊さというか深さというものはもう、限りがない分からないこれが私は深さだと思うです。どこまで深いかわからないのです。
夕べの月例祭の時にちょっとお話致しました様に、昨日の三時半の研修の時に、栄四郎が申しておりました事です。
親先生が毎朝ここの庭へ出てから天地を拝まれる。そして、天皇陛下へご挨拶をされる。天地を拝まれるのはわかるばってん、天皇陛下を拝みなさるとを僕はわからん、と思うておったと。けれども、親先生が拝まれるから拝んでおったけれども、昨日の御理解を頂いてこれは本当に日本国民の言わば命の大恩人だとわかった時にです、なるほど親先生が拝みなさるはずだ、拝まにゃおられないものを。僕はそれが〔分かって〕嬉しいというて一番こっちにそのことを申しました。そして、昨日の御理解をずっと頂いたところを発表しておりましたがです。言われてみると実は私もそうなんです。なぜ天皇陛下を拝まんならんかわからん。栄四郎と同じこと。けれどもね、あの三代金光様がお出ましの時に必ず、東の方を向いて遙拝になられます。あれはどこを拝みなさっとか知らなかった。ある時、あの聞かせて頂いたんですけれども、あれはご先祖の奥城に向かってご挨拶になるそうです。それから、天皇陛下へまた、あの場所が違うでしょう。金光教のご先祖にご挨拶なさる時と、天皇陛下へご挨拶なさる時は場所が違いますよね。で、深々とお礼をなさいます。それがあの天皇陛下へご挨拶になるんだ、拝みなさるのだという事を聞かせて頂いてからです。金光様も拝みよんなさるから私も拝みよるというだけのことでですね。その命の大恩人だなんて事を知らずに私も拝みよった。栄四郎と同じことです。そこでなら、昨日の栄四郎の言葉じゃないですけれども、命の大恩人だから拝むという事がわかったら、もうそれまででしょうが。けれども親先生が拝みよんなさるから拝むんだという事の方が深いんです。
私はね、信心の金光教の信心の素晴らしいところはその辺だと思うです。どう言うて拝まんならんですか、私はどうも合点がいかん。合点がいかんことはしゅうごとなか。そういう人もあります。金光様が拝みなさるから私も拝んでるんだという。金光様が、ああいうて下さるんだから、ああ教えて下さるから、訳はわからんのだけれどもそれを行じておる。もう、これは深さにおいても限りがないです。
皆さん、どうでも大きなおかげを頂くためには、大きな信心をしなきゃなりません。寛い、深い、それこそ海の様な、寛い、深いいうならば、信心を目指すということにです、私は一心を立てなければいけないと思うです、ね。
ただ小さい一つの願い事のために、はあ、あん時には一心の真を出したけんで確かおかげ頂いたばってん、もうその次の一心の真が出ないといった様なことではいけないでしょう。また改めて、その一心の真ば、そのいうならば、追求探究しなければならない。
昨日、ある方のお届けをさしてもらっておりましたら、この「楽」という字ですね、あの白という字を大きく書いて、それから横にこう、糸偏がこう付いてますね。それがね、白という字は大きな壺のように頂いて、その横の糸偏がです、ちょうどその壺に何か付いとるごと小さく小さく頂くんですよ。
そうでしょうね、楽とは白と大きく書いてちょうどその茶壺なんかに耳が付いとるでしょうが小さく。あのくらいに糸偏がそんなに小さいのです。
その人はなかなか<信心も>もう巧者ですし、ある意味で最近言われます、白という色の深さや陶の春といった様な、ああいう風にいわゆる、白という色の深さやという様に金光様の信心は素晴らしい、素晴らしいだけじゃない深い、仏教の親鸞上人様がいろいろ素晴らしい教えを残しとんなさいますね。善人でも助かっているのだから悪人はなおさらのこと助かっとるのだから悪人はなおさら助かるんだと、いわゆる教祖が<仰る>屑の子ほど可愛いと仰るのはそれなんです。
例えば悪いことをしておる悪人、それでも例えば合楽ではそれに御の字を付けて例えば頂けばおかげだという様な頂き方ですね。そして悪人から善人になろうとしない、行方、いうならば神のいう事はもう、いうなら白という壺に、ほんな茶壺の様な耳から小さくちょいと付いとるという様なくらいにちょっと付いとる糸偏がある。段々しかも小さくなって行っているという感じです。そしたらこれは楽という字じゃなくなってくるのです。その糸偏が横に付いているのがね、段々小さくなってなくなっていったら白という字と書いて下に木という字を書いたらというどうしたらもういうならば元の木阿弥にならなければならんということ、おかげであってもこのへんのところが素晴らしいですね。
もう本当に教祖様の、[白という色の深さや陶の秋]であって、善人ですら助かっているのであるから悪人に於いておやというのです。その悪人がです善人になる事の精進が信心です。いつまでも悪人でも助かるんだから、悪人でも南無阿弥陀仏と言えば助かるんだからといった様な頂き方ではいけんのです。その悪人の自覚が出来て、その悪人が善人にならせて頂くところにです。限りないおかげ、いうならば大きなおかげが頂かれる。大きな徳が受けられるのです。いうなら、悪人が善人に変わっていくだから教祖様は信心に一番大事なことは日々の改まりが第一とおっしゃってるのです。
改まらんでもです、神様は許して下さる。いや、それをおかげと頂きゃそれだけでもう認めて下さる。それはけれどもです、例えば人道上許されないという事の場合です。やはり改めてこそ初めて本当のことになるというわけです。私は、いうならばそういう親鸞上人様が、大変深い教えをなさっておられる。また深い教えに自分が身をもっても、まあ行じておられる。本当に仏教の中にもこういう、いうなら自由無垢な教えがあるだろうかというくらいに素晴らしい、いうなら第一、妻帯肉食がそれです。
お釈迦様の御教えにはそういう様な事はなかった様でしたけれども、お釈迦様の御教えを段々深く探究していったらです、そこんところに到達されたわけです。
合楽の信心でもそうです、御の字さえつければという事。そこになるほど神様の御心の深さ、広さに恐れ入るというだけのものに止まらずにもう一つ前進させてもらうところに改まりに改まっていくというのです。行き方にならして頂く時です、なるほど悪人でも屑の子でも神様は可愛いといわれるのですから。けれどもそれで良しとせずにいうならばその屑の子が神様のお役に立つという氏子になって来たらどういう事ですか。しかも小さなお役じゃなくて大きな御用に大きなお役に立たせて頂くごとなったらどういう事でしょうか。神様が氏子に対して、千万無量の思いとして下さるのはその屑の子、難儀な氏子に対するところの千万無量です。なら、親でも人間でもそうです。子供の中に不良の子がおった世間に迷惑をかける様な子がおったらです。その子にかける思いというものは、もうあんな奴は親でもない子でもないと例えばよし言うてもその心というものは断ち切れるものじゃない。であればある程に、千万無量というものはそういう時に感じます。
だからその千万無量の思いに応えていうならば悪人が善人になっていく事でです、屑の子がお役に立つ氏子にお取り立て下さいと、信心しかも小さい御用も大きいお役に立たせて頂こうという、私はそういう姿勢そういう信心がです、大事だという事です。
そこに私はです、本当に哲学的にとか、教学的に深く広くわかるという様なことがですはあ、あっちは深いというけれど、深いとか大きいとかという事はです。結局大きな、深い大きな受け物を持った人をもって信心が深いいわねばならない信心が大きいといわねばならない。それが実証です、証です。
最近、竹内君が言ってましたけれども本当の偉い先生と信心の問答をさしてもろうて、例えば御比礼がどんどん立つからというて、人がどんどん助かるからというて、助かっておるからというて、必ずしも良い信心じゃないと、極めつけられるたと言うのです。そんな事はないと思う、例えば合楽なら合楽の場合、段々に人が助かっていく様になっているが、そんなら信心が間違っとるから助かっていくのかと。そんなこと言うて、なら、創価学会を見て見よ、あのくらいの信心でもあんなに沢山、信者が出来ていきよるじゃないか、と言われたという話を聞いて、もう本当に悲しうなりました。
その方が今、教団の第一級の先生であるということ故に、なおさら悲しい事だなと思いました。そういう人達に本当に金光教のいうなら新たな革命といわれる大きな運動が《今年》六月から展開される話ですけど、こういう人達には任せておられないなという気が致しました。沢山の人が助かる、沢山の人がお参りがある。そういうところだからというて信心が良いからじゃないんだというのです。
そうじゃないです。沢山の人が助かり沢山の人がおかげを頂けばその先生の受け物が大きくて深いから沢山おかげがいただかれる、もう道理です。これは、どんなに信心が深いのどんなに信心が大きいのというてもおかげは一つも頂いちゃない人が一人も助かりよらんというならば、それは私はニセの深さだと思うです。ね、頭だけではいうならば信心です。受け物は心ですから、頭じゃおかげが受けられんことがわかります。頭でっかちになってはいけません。むしろ素朴でもそれこそ泥の様な信心。いうならば、備前焼きの灰皿ではないけれども、見よれば見よるほどわからないけど深さがある。そういう信心を身につけて行かねばなりません。
なるほど、思索もよかろう教学もよかろう、それはわかれば鬼に金棒です。けれども、問題は大きなおかげを頂かねばならないためには、大きな受け物を受けなければならないというのである、ということです。深い受け物を頂かねばいけないということです。
昨夜、私こちらへ出て参りましたらもう、もうどの部屋に行っても大祓信行。昨日お月例祭でお泊まりが多かったもんですから、皆さんが部屋部屋で大祓信行を一生懸命やっている。地下室もやっている。もうここではいっぱい、もう私はここへ出て来きりませんでした。あまりその、もう最近はここへ出てきても御神前に入られんのです。皆さんが一生懸命大祓信行をやってますからね。それで障子の向こうからお礼させて頂いたんですけども、その時にあの昔、小さいお盆の大きいのがありましたよね、赤のこんな大きなのが。それを幾つも頂くんですよ。大きかってもね、浅いです、あのお盆は。それもこんな大きな、昔旧家なんかにありますよね。今でも大きなお盆が浅い、ははあこれは信心が浅い事だなと思いました。私は信心がこれはいよいよこういう大きさを頂いとるのだから、この深さを頂かねばいけないなあと思うたら、ちょうど御本部の斎場ですね、あの二階と下にありましょう、大祭の時なんか上下がいっぱいになりましょう。ああいう情景をです。あれよりもっと広い会場に二階も下もギッシリという様な参拝者でいっぱいになっておるところを頂きました。ははあ、今の様な合楽の信心では例えば大きくても浅いなと、いよいよ深い信心をさせてもらわにゃいけないなと。それにはやはり大きなおかげを頂くためには大きな信心、深い、それがおかげを頂いて、より、またたくさんのものが入るわけですね。深ければ深いだけ、沢山ここに入れるわけです。だからその、いよいよ大きな信心を、または深い信心をいよいよに身につけさせて頂かなければならないと思いました。
そこで、なら大きい深い信心とはと。今の合楽の信心では、まあこの程度ですから、まあ限りなくおかげを頂いていくために、いよいよ信心を深めて行かなければならない。それはです、私どもがね[白という色の深さや陶の秋]という様なところに止まっておるのではなくて、やはり赤の深さも青の深さも、または紫の深さもわからしてもらう、もちっと手前のところからいうならば悪人から善人にです。屑の子から、お役に立つ私にならせて頂きたい、そこのところの味わいを頂く信心こそ、いよいよ深い信心だという様に思います。
ね、合楽の信心、例えば今までは白という色の深さという事が合楽では色が深いと自分では思うておったけれども、昨夜そのお知らせを頂いてからです。これではいくら深いというても広いというても、この程度であるからこれがいよいよもっと沢山な人が助かっていく事のためにいよいよ例えばね悪人でも助かられるんだと神様の御恩恵の中におられるんだと、住まわせてもらえるんだと、いうのではなくて、その悪人の自覚からいよいよ善人のおかげに精進しなければならない。屑の子から、いわばもっともっと、お役に立つ私にならなければならない。ためにはです、どうぞお役に使うて下さいと言っただけでは神様が使うて下さらん。
そこでいよいよに改まりに改まり、本当の幸せにおいてのお役に立つ私どもにならせて頂くことの願いを立てて、そういう願いにです。私は一心の真を貫かなければならないと思います。ね、目先の小さい事に一心の真ではなくてね、小さい家を建てるでもやはり棟梁は一人である。大きな家を建てるでも棟梁は一人である。そんなら大きな家を建てさせて頂ける沢山の人が住めれれる。私はおかげを頂く願いを立てなければならん。ためには悪人で止まっておったんではいけない。屑の子で止まっておったんではでけない。本当に神様の、いうならば手足にもならせて頂けれる様な、お役に立ちたいという念願をです。そこに一心を立てなければならない。その姿勢を例えば昨日の御理解からいうと、天皇陛下が命をかけてしかも自分の全財産を投げうって、自分はどうなってでも構わんから国民を助けてくれ、自分はどうなっても構わんから国民に食料の最低確保だけはしてくれと、マッカーサーに頼まれたという時にです、マッカーサーが例えば天と思うておった日本の天皇は戦犯の一番はじめに殺されるのである、しかも各国はもう、極刑に処すべきだという、その【 】の中にです。自分の思いがそれとは反対に、ひっくり返ってしまう様になったと。今まで【 】言うておった様な、言葉遣いがです。陛下と話の途中から、敬語を使う様になった様なおかげを天皇陛下のおかげで私どもも助かる事が出来たという事なんですけれども、一つの事を願う事のためにはそういう姿勢がいるんだという事でございます。ね、一心の真を表さなければ駄目です、いうとるだけじゃ。もしあの時天皇陛下がです。自分はこうだああだと言い訳をなさったり、亡命をなさったりしとったらです。今の日本はどうなっとったかわからないんです。または側近達がです、涙を流して戦争を続けてくれと、もう全国民が死を覚悟しておるから、とまあ言われた時にです。それを決断される勇気がそれこそ、天皇陛下の終戦のお言葉にもあります様に、それこそ忍び難きを忍び、堪え難きを堪えて、【 】例えばもう自殺でもなさった方がよっぽどお楽であんなさった方が楽でおありなさっただろうと思うです。そういう中にいうならば赤と思うておったマッカーサーがそれを白に思いを変えたという様にです。神様でも同じこと神様でもそういう内容がなからなければいけないということね。
そういうところの願いは心と言うたら一つ、神信心でもこの一心を出すと、と仰るのはそういう一心のことだと思います。それこそお役に立ちたい、立ちたいの一心をです。言うならば燃やすためにはです。なら、これで良いという事は決してありません。ためには私がもちっと大きくなりますから、深くなりますからという信心がなされて初めて大きな深い信心といえます。またそこにそういう受け物が出来るから、大きなおかげを受けるのです。思索の上に立った信心はもろいです。頭だけの信心ではどういう素晴らしい事を言ったり、思うたりしておっても大きなおかげが伴いませんからね。どうぞ。